「なんで…なんでなんだよ、フィスさん!!」
喉が切れて、その傷口から血を噴くのではないか…
とらの声は、そう思いたくなるような声だった。
悲痛に高ぶるとらの感情と、凪いで冷えていく俺の感情。
対比する二つの温度。
久しぶりに味わう底冷えのするような温度を、心地よいとさえ感じる自分。
あぁ、完全に『モード』が切り替わっているな…と頭の隅で思う。
「俺とお前が賭けをしてお前が負けた。…それだけの事だろう?」
何を当たり前の事を言っているのか…と俺は言った。
「だからって…何で!!俺達には関係の無いウサギじゃないか!
怪我をしていたのを拾ってきたんだって、アンタだったろ??」
あぁ、鬱陶しい…。
たかがウサギ1匹殺すだけのことで、何をこいつは騒ぎ立てているんだろう。
人を殺したいと、それが本気だと言うのなら、何故ウサギ1匹で躊躇う。
俺は手を伸ばして、
とらの腕の中に抱え込まれた薄茶色の毛の塊を鷲掴みにした。
のんびりと遊んでいる時ならば、
気持ちを穏やかにしてくれるかもしれない、柔らかな手触り。
けれども、今はただの“対象物”以外の何者でもない。
庇うように身をひねるとらよりも早く、ソレに向かって手にしたナイフを振るう。
その動物特有の長い耳が片方、切り落とされて地面に落ちた。
ぱたり…という微かな音。
「なっ…!!」
苦痛を訴えて暴れるウサギをきつく抱き込んだまま、
とらが、色素の薄い灰色の目を一杯に見開く。
慌てて耳を拾い上げて、元の位置に戻してみて…試みるサナスは動揺のあまり失敗した。
馬鹿だな…と思う。
切断した傷口はサナスでは治りきらない。必要なのは物理的な手術だ。
止血の仕方も、傷口の保護の仕方も教えたはずなのに、何一つ守ろうとしていない。
戦場で誰かが負傷した時、応急処置の判断を誤れば仲間を死に近づけるのに、
殺したくないと言いながら、何故間違いを繰り返すのだろう。
「お前がグズグズしてるからだろ?」
薄く血の付いたナイフを、
俺は、見せ付けるかのようにとらの眼前に突きつけた。
血の臭いがとらの嗅覚を刺激するように…
その血で、とらの頬を汚そうとでもするかのように…。
「俺はお前にソレを殺せと言ったんだ。
さっさとやらなきゃ、今度は反対の耳を切り落とす」
綺麗な綺麗なとら。
本当に人を殺したいのなら、お前もこの血に塗れるべきだ…。
◆◆◆
とらの戦闘訓練を引き受けるようになってから、多分10ヶ月くらいだろうか。
「そろそろ頃合か」と考えた俺は、寮の裏手の森の中に、ちょっとした罠を仕掛けた。
タヌキとかイタチ等の小動物を捕獲する為の罠。
何度かの失敗と、何度かの目的外の動物。
1週間程粘って手に入れたのは、小さな薄茶色の野ウサギだった。
金属のゲージの中で、不安げに暴れるそれを抑え付けて、
ポケットから小さなアンプルを取り出す。
普段は携行用の救急キットの中に入っているそれの中身は、麻酔薬だ。
首の近くの皮膚をつまみ上げて、ほんの少量を皮膚の下に流し込んでやる。
自分であれば、僅かに痛覚を鈍らせることができる程度の量。
けれども、小さなウサギにとっては十分すぎる量だ。
ほどなくして、ウサギの身体はぐったりと力を失う。
殆ど意識を無くしかけたそれをゲージから取り出して、地面に横たえた。
胴体を抑えられ、力なく投げ出された後ろ足。
その後ろ足をめがけて、俺は鞘に包まれたままの剣を軽く振り下ろす。
小さな身体の細い骨にぶつかる、頭蓋や頚骨を砕く重量を持った残酷な凶器。
パキリ…という音と共に、抑えていたウサギの身体が小さく跳ね上がった。
けれども、麻酔に犯されたウサギは逃げ出すことはない。
骨と筋を潰して血を流す傷口を、
あたかも手当てをしようとしたかのように、少し汚いタオルで包みこんで…
俺は、そのウサギをとらの元へと抱えていった。
「森ん中で訓練してたら、見つけちまったんだ。
悪りぃんだけど、ちょっと面倒見てやってくんねぇ?」
ぐったりとしたウサギを差し出した俺に、とらが目を丸くする
「俺?アルじゃなくて?」
「うん。ちょっと周期的な問題で…な…
アルは、多分、俺のことで手一杯になると思うから」
そろそろ俺の“身体の具合が悪くなる時期”だから…と、
そう告げると、とらは二つ返事でウサギを受け取った。
「おっけおっけ!そういうことなら任せとけ」
きっととらなら、親身になってウサギの世話をするのだろう。
大切に、大切に…情を移すのだろう。
…それが俺の狙いだとは気付きもせずに…
◆◆◆
「だ、だめだ、どうして、いみがない、いみ、いみ、」
意味が無いのはお前の言葉だ。
動揺しまくったとらの言葉を聞いていたら無償に腹が立って、
俺は、思い切りとらの身体を蹴り飛ばした。
倒れこんだ拍子に緩んだ腕の隙間から、茶色い毛の塊がヨロヨロと這い出す。
今、コイツに居なくなられる訳にはいかない。
足を怪我したウサギくらい、手で捕らえるのも造作も無かったが、
何となく面倒くさくなって、俺は手の中のナイフをウサギに向かって放り投げた。
右の後ろ足、狙いより胴体寄りに突き刺さったナイフ。
急激な出血や外傷性ショックで死なれては困るのに、少し手元が狂ったらしい。
こういう器用さを要するスキルはいまいち苦手なんだなぁ…と溜息を漏らす。
地面に縫いとめられてもがくウサギを、間抜けのように見つめるとら。
さっき、倒れこんだ時の衝撃で落ちたのだろう、
とらのポケットに入っていたばずの煙草が、足元に落ちていた。
勝手に拾い上げて、口に咥えた一本に火をつける。
口の中に広がる苦味が、今の気分にはちょうど良かった。
吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出してから、
俺は、ウサギの大腿から生えるナイフに手を掛ける。
抉るように捻る動きに、茶色い毛の生き物が奇妙な声を上げながら暴れた。
青白く骨ばった腕が俺の腕に絡みついてくる。
「あ、やめ、ごめ、ごめんなさい、やめて、どうして」
ナイフを握る片腕に、両手でしがみつかれては、いくら俺でも腕を動かすのは困難だ。
溜息をついて、俺は空いている手で口の煙草を摘み上げる。
細長いパーツを斬り落とされて血を流す傷口、
そこに煙草の火を押し付けようとした時、ナイフ側の腕に掛かっていた力が消失した。
煙草の先から立ち上がる嫌な臭い。
煙草の火が焼いたのは、ウサギの傷口ではなくとらの手の甲だった。
身を挺して、この灼熱からウサギを護った根性は見上げたものだけれど…
馬鹿なヤツ、たかがウサギのために。
煙草を皮膚の上で消す火傷は、軽いものじゃない。
きっとこの先、何日も痛むだろう。ひょっとしたら、また熱を出すかもしれない。
「どうして、だってまだ、あぁ、あ、まだ、えさをあげてな、ないよ、じかんがえさの、だって…!」
「甘えるなよ、とら。
今日の餌がやりたかったなら、何で俺を倒さなかった?何で勝たなかった?」
「どうしてっ!どうしてどうしてどうしてどうしてしぬんだよぉっ!
なにもない、なにもしてないよっ!?
おれがよわいから、よわいのはおれだから、なんで???なの、」
完全に我を失った叫びが耳に刺さって、苛立ちが加速する。
消えた吸殻を足元に落として、俺はそれを踏み潰した。
そして、ついでのように、
逃れようと虚しく地面を掻くウサギの前足に、体重ごと自分の足を乗せる。
再び腕にしがみついてくる、とらの冷たい手。
「ごめんなさいゆるして、だめだ、だめだだめだだめだだめ」
「だから?」
とらの左肩に手を掛けた。
決まった方向に力をかけてやれば、肩の関節など簡単に外れる。
「実戦の時、護りたかった誰かを傷つけられても、お前は同じ言葉を吐くのか?」
苦痛の悲鳴。
煩いとは思うが、パニックの叫び声よりはずっと耳に心地良い。
襟元を掴んで引き寄せ、涙に潤んだとらの瞳を睨みつけて吐き捨てた。
「とらが何と言おうとこれが戦いで、アルが何と言おうとこれが俺だ。
とらは負けた。これ以上話す意味は無いな…」
突き飛ばすように手を放す。
ヨロヨロと、できの悪い木偶人形のような動きであとずさって、とらは尻餅をついた。
「俺は楽には殺さねぇよ?」
突き立ったままのナイフを跳ねるように引き抜けば、
細いウサギの脚は、皮一枚を残して取れかかる。
地に縫い付ける拘束は無くなったはずだが、もはやウサギが逃げ出すことは無かった。
もう一方の耳を削ぎ落としてから、さてどうしようかと考える。
そういえば昔、尋問していた相手に死なれたことがあった。
あぁ、そうだ。あの時は顎を封じていなかったから、舌を噛み切られたんだ。
ウサギは自分の舌を噛み切ることはしないが…。
早く苦痛を終わらせてやりたいと、そのために殺してやろうと、
とらがそう思えるようにするには、どんなパフォーマンスが最適だろうか。
「…そういえばウサギの前脚って、剥製にして幸運のお守りになったっけ…」
既に血に濡れたナイフを握りなおした時、それは起こった。
灼熱する魔力の塊が、這い蹲る茶色の毛皮を押し包む。
小さく小さく内側に収束する、まるでブラックホールのような小爆発だった。
本能的に飛び退っていなかったら、きっと自分も巻き込まれていただろう。
跡にはただ黒く焦げた地面が残るばかり。
発動させた右手を掲げたまま、ダラダラと涙を流して喘いでいるとら。
できることなら、自分の手で、刃物で…
肉と骨を切り裂く感触を味わってもらいたかったが、贅沢は言えなかった。
一振りして刃に残った血液を振り飛ばし、ナイフを腰の後ろにしまう。
呆けたままのとらの襟首を掴んで俺は言った。
「しっかり寝て、明日の訓練休むなよ?
寝れなかったとかで体調崩しても、そのまま続けるからな」
多分、耳には届いていないだろうし、不可能だろう。
ここが戦場ならば、例え親が死んでも、恋人や親友が死んでも、
休める時には休んで、次の戦いに備えなくてはならないが…。
この平和な学園では、どこまでを教えれば良いのか、いつも迷う。
とらの襟元から手を放し、踵を返しかけた時、それを見つけた。
薄茶色の短い毛が片面に生えた、細長く薄い欠片。
一番最初に切り落とした耳が、魔力の爆発の外側に残されていたらしい。
一旦振り返って、
とらがこちらを見ていないことを確認してから、こっそりとその欠片を拾い上げる。
とらをその場に放ったまま森の中をずっと奥に進んで、
すっかり離れたあたりで、適当な木の根元にそれを埋めた。
とらが落ち着いたら、ここに連れてこよう。
残された、たった一枚の耳が埋まっていることを伝えよう。
その時には、歌い慣れた鎮魂歌の一つでも歌ってやろうか…。
「護れなかった」という事実を、「戦う」という意味を、
いつでもとらが思い出せるように…。
綺麗な綺麗なとら。
お前は本当にこの道を行くのか…?
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