四十九日の法要を行う意味についての話だったのですが
・「悲しい、もう駄目だ」と思っても四十九日くらい経つと、落ち着いてくるものだ
・悲しみに直面した時、時にはその悲しみに浸るのも人の心を癒す手段である
・「喪に服す」という言葉が示す通り、
四十九日の間は、周りの者も騒ぎ立てずに、静かに遺族を見守る
・四十九日の後は、悲しみに区切りを付けて、また前を向いて歩き出そう
要約するとそんな感じでした。
そこからさらに発展させて、
「死別のみならず、悲しい思いをした時は、
『まだ悲しみが癒えない』と嘆くのではなく、まずは四十九日、待ってみよう」と。
近代はとかく情報のやりとりが素早くて、
何かをしたら、すぐに効果が現れる…という状況に慣れてしまいがちであるが、
人の心というものは、そうではなく、時にゆっくりとした時間が必要である…と。
「自分の悲しみが癒える時間を待つ」「相手の悲しみが癒える時間を待つ」
そういう「待つ」時間として、まずは四十九日を一区切りとして辛抱してみなさい。と。
そんな内容のお話でした。
自分なんかも仕事の上では、とかくクイックレスポンスが必須の人間で、
時に、分単位でのアウトプットを求められる事もあるのですね。
学園では遅レスが常態化していますが…(汗&土下座)
でも、人の心はそうじゃないんだよ…と。自分自身も、他人も。
いつまでも立ち直れない自分に苛立つのでもなく、
励ましの言葉の届かない他者に苛立つのでもなく、
「落ち込んでいる」という状態を、まずは四十九日くらい辛抱してみようかな…とか。
そんな事をつらつらと思った次第なのでした。
なんか、楽しくもない話題で、お目汚しを失礼しました(平伏)